自分の見方を自分に教える。
なんで、自分を好きになれないのだろう。
世の中、見えるものが全て。
できていた自分、うまくいっている周りばかり気になる。
そればかりを見る、そればかりが気になる。
比べてみると私は劣る。
だから、当然満足できないし、好きにもなれない。
好きじゃないから、不満が生まれる。
不満だ、不満だと罵ることに力を使う。
成長のための力がなくなる。
だから、成長できない。だから変われない。
それなら、見えないところを見てみよう。
できてなかった自分、うまくいかない周りなんて
普段は気にも留めない。
そんなものには目を向けないし、目が向かない。
だから、見てみる。自分も捨てたもんではないと感じる。
それは慢心し、思考停止するためではなく、
それは自分を思いやり、好きになるために。
なんで、自分の見方が変わったのかな。
・・とまあ、とある昼に鏡を見た時思ったんですよね。
「ちょいと痩せてるかも」
「あれ、今日自分のこと好きになっとるかも」・・と。
なんだろこの感覚。確かに痩せてるのは事実。しかしだ、痩せていると言っても半年前の自分と比べての話で、一般的に見たらまだまだだとも思う。
「私はなんでこんな感覚を持ったんだろ」と考えてみたいと思った。これが理解できるであれば、ものごとをもっとフラットに客観的に観れるようになるのではと思う。
「好き」や「嫌い」って感覚の話。こいつらは価値観の話で相対的なものだよな。自分の価値観やアイデンティティをなにかと比べることで得られる感情が「好き」や「嫌い」なのではと思う。
自分の体重なんて一朝一夕で変わるもんではない。とても漸進的だ。それでも今日、はたと変化を感じ自分を少し好きになった。私はきっと今日とある昼に少し太った過去の自分を比較対象に選んだんだろな。
漸進的であるが故に、自分の変化に気づかず自分を意識的に見てこなかった。だからふと鏡を見た時に意外と変化した自分に気づいたような気がする。それにしても人は自分の変化には特に鈍感なものなのかもしれない。
人は、見ないものは徹底的にみない。
心理学者のダニエル・カーネマンが「人は見えるものが全て」と言ったものだけれど、人は見える範囲で世界を構築して、理解しようとする。私もおんなじ。
自分の変化を見てこなかった私は、周りの理想の体型であったり、理想の体重ってものを比べる対象にして自分を嫌いにしていたのだと思う。
毎日見ているのに、本質的には見えていない。自分の中ではこれを勝手に「既知の無知」と読んでいる。灯台下暗し的な感じ。「いや、そこにあるやん、ちゃんとみてあげて」的な感じ。
自分を嫌いになる。自分に不満を持つ。こうなると本当は成長に使いたかった時間やエネルギーを自己肯定する為に使い続ける。
「本当はこうありたかった」
「本当はこんなはずじゃない」
「いやまだまだ大丈夫」
自分をひねくれてみるので、時間やエネルギーの無駄だけじゃなく、自分を正しく見ることもできなくなる。・・・とマインドフルネスストレス軽減法(J・カバットジン著)に書いてあった。ほんとにそう思う。実にもったいない。
「自分嫌い病」
それではさて、こういうふうに考えてみる。
「人は見えるものが全て」になるもんだと強く意識する。そうして「見る対象をコントロールする」ことで「自分嫌い病」は治せるよな、と。
自分嫌いな人(例えば割と自分)は無意識に理想の自分や成功している周りを比べる対象にするような気がする。だから自分が無意識に見てない領域に目を向けてみる。
そうすることでずっと前の失敗だらけの自分や、苦労している周りが目に入り、自然と比較対象にノミネートされてくる。卑下だけではない評価も自然に入ってくる。まんざらでもないと思うきっかけになる。
だって、見える範囲が変わっているから。
「しょーもないやつばっかりみててもしょーがない」と思うのであれば「できてるやつばっかりみてないかい」と自分に言ってあげよう。バイアスに囚われてるぞ、と。
「私できてるやん病」にならず成長する。
さて、まんざらでもない、と思えたとしよう。そうしたら「自分嫌い病」は治ってきてる。今の自分を認めて成長するために時間とエネルギーを使える様になってきてる。
でも気をつけて「私できてるやん病」に罹らないようしないといけない。これに罹ると、井の中の蛙になったり、他人を貶めてでも今の地位を守ろうとする。
そうして成長する為の思考が停止する・・・とマインドセット(キャロル・ドゥエック著)に書いている。まさしくそうだ。
だから、見える範囲を変えるのは、「自分嫌い病」を治して、自分を思いやり、慈しみ、好きになるために行おう。
そうすれば、きっと成長し続けることができると思う。