生き方・成長の仕方

「私は何の取り柄もない」と卑下するなかれ。

「こんなもんゴミでしょ?」

一見価値のないものが、価値があるものになる。

シーグラス、波打ち際にあるガラスの破片。
波に揉まれて角が取れ、曇りガラスのような見た目になったもの。こんなもんを子供が一生懸命集めてくる。

なんだったらシーグラス探しといいつつ湖岸を散歩する親子。初めてこんなガラスに名前がついていることを知った。

数十年前に製造されたガラス製品。赤や、オレンジ、黒は希少性が高くマニアにとってはとても貴重なものらしい。そう聞くと、途端に集めたくなるのは不思議なもんだ。

たかがガラスの破片に誰かが意味を込めた途端に、そこに価値が生まれる。誰かが価値を認めた途端、周りもそこに価値を感じ取る。
なんとも不思議なもんだ。

意味が生まれ、価値が生まれる。

誰かがそこに意味を込めた瞬間、価値が生まれる。
そんなことを考えてみて案外、自分という存在も似たようなもんかもしれないと考えてみる。

例えば「私は何の取り柄もない」と嘆いているのであれば、シーグラスを思い返して考えてみればいい。

少なくとも自分で自分の価値を決めるもんではない。自分の存在価値なんてもんは、周りが勝手に意味を込めて決めるもんだ。

誰かにとっての私になれたのであれば、そこに価値は生まれるもんだ。そうして誰かにとっての価値になれたのであれば、意外とそれは広がるもんだ。

取り柄のなさにも取り柄を探す。

割れたガラス、しかも一部分、本来の透明度は影すらなく、曇りきった表面に誰かは「きれい」だと意味づけをする。

そうだとしたら、仮に未完成で、不完全で、失敗だらけの私だったとしても、誰かにとっての「きれい」だったりするのかもしれない。

だから、自分の取り柄のなさにさえ、何かの取り柄があるもんだと意味を探すことに注力してみよう。

「もう遅いんだ」と嘆く必要はない。
何十年も前のシーグラスほど価値が生まれるもんだ。自分の経験してきた全ての時間にしっかり意味を持たせてみよう。

そんなことができたなら、世界のどこかできっと誰かが拾ってくれる。誰かにとっての「きれい」になれる。

だから自分を卑下するのではなくて、自分の全てを受け止めよう。自分に意味を見つけたならば、誰かにとってのなにかになれる。

そうすれば、「自分に取り柄がない」と嘆くこともないし、前よりもっと自分のことを好きになれる。

・・と唐突にガラスの破片を見て思った話。

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