珈琲を淹れ続け続ける。
珈琲を淹れてるとさ。思うんだよね。
小さな失敗の積み重ねがさ、間違いなく自分を上達させているとさ。
豆を曳く、細かくまたは粗くね。沸騰したお湯を冷ます。そうして手をあてて温度を感じるのさ。
豆の層の膨張が決壊しないようにお湯を入れる。豆に衝撃を与えないように細くゆっくり円を描くように入れるのがコツさ。
時折お湯の出が悪くなる時は、目詰まりしてる証拠で、フィルターの端を少し摘んであげると通りが良くなる。
こんなことをかれこれ15年やっている訳なんだけどさ。これは理論を積み上げている訳じゃない。もちろん珈琲の理屈ってやつも調べてはいるぜ。
でも、珈琲の理屈ってやつが役に立つことは少ない。なんとなくそれっぽく理解できたつもりになっているだけなんだよ。
どちらかというと美味しく珈琲を淹れるには、やっぱりとにかく工夫、工夫、工夫さ。そんなふうに思うよ。例えばさ、
ちょっと粗挽きにしてみよう。
ちょっと温度を上げてみよう。
ちょっとお湯を太くしてみよう。
ちょっと2投に分けて淹れてみよう。
ちょっと、外から内へ円を描いて淹れてみよう。
そんな試行錯誤の連続さ。
僕はね、工夫し続ける。そうして失敗し続ける。
僕はね。15年間小さな失敗をし続けているのさ。
成功した一杯を君に提供する。
だから君はこう思うかもしれない。
「この人の珈琲美味しい。私はとてもこんなに上手に淹れる事はできない。すごい」ってね。
成功した方の一杯が評価され、無数の失敗には意識が向かない。
でも、ちょっと待ってくれと思うんだよね。その一杯はさ、15年の試行錯誤、無数の失敗の経験から、不正解と思う道標を避けてきただけの一杯なんだ。
だからね、失敗がなけりゃ僕は大抵道に迷っていたよ。
だからね、僕のことをすごいなんて思う必要はないのさ。
世の中には向き不向きってもんがあることは認めるよ。
でもね、なにかする時に「画面の中の凄いあの人」とかを見て、僕にはどうせ才能がないって考えるのはちょっと気が早いのさ。
いいから失敗してみろよ、って話だね。
いいから行動する。いいから失敗する。いいから試行錯誤する。
成功した結果に目がいく、そうして無数の失敗には目がいかない。これがいわゆる生存バイアスってやつだろうね。いなくなった人には誰も見向きもしない。
無数の失敗
無数の工夫
無数の試行錯誤
こんなところにこそ上手くいく秘訣があるって思うんだよ。珈琲を淹れてるとね。見えないものにこそ大事なもんがあるってことなのかもね。
だから、ますは行動してみなさい。
そうしていいだけ失敗してみなさい。
そこから自分なりの方法論が生まれたり、他人の言ってることがわかるようになる。
他人の言葉を聞くのはそれからでも遅くないと思うよ。いきなり成功すると失敗したくなくなっちゃうしね。
それだと美味しい珈琲は淹れられないと思う。まぁ人生も得てしてそんなもんかもしれないね。
ま、僕は恵まれているよ。珈琲淹れる3分間は、失敗と工夫の連続だけれど、いちいちあれはダメ、これはダメなんて言われないしね。安心して失敗できるからね。
もしかしたら、そういう安心できる環境こそがまずは大事なのかもしれないね。
だからね、僕は君が幾ら失敗しようともできる限り見守っていようと思うよ。それでもいいかい?
「うん、その方が嬉しいかも。・・やってみる。ありがとう!」