自分には能力があると思いたい。
昔から自分を試されるクイズには挑戦的だった。
自分ならきっとできるはず、と考える。
「自分には能力がある」と証明したかった。
「自分はやればできる」と証明したかった。
しかしこれは能力へのレッテルを貼る行為で、
できなければできないほど自分を追い詰める。
つまり、とても硬直的な思考。
自分は普通だと認識する。
他人の評価は他人の目からみた評価だと認識する。
自分のありのままを好きになる。
自分のありようを好きになる。
そうするとことで肩の力が抜ける
嫌いだと思っていたお腹の膨らみを凹ますことをやめる。
余計な力を別のことに向けることができる。
特別だというレッテルはいらない。
普通であることこそが自分にとっての最強の成長戦略。
普通である勇気、なんてもんは直観に反する。
アドラーが語る「普通であることの勇気」キャロル・ドゥエックの成長マインドセット、それからマインドフルネスの自分なりの理解を今の心のありようで思いつくまま語ってます。
「全くなにいってるんだこいつは?」という感じですね。
まぁどんな顔してるか想像ができそうですが、まあ聞くだけ聞いてみてください。
今までアドラーの嫌われる勇気で、ずっと釈然としない言葉があったんです。
どんな言葉かっていうとアドラーが若者に向けた「あなたは普通だ」というセリフ。
まあ釈然としない。
そりゃそうだよね、と同意を期待したいところですけど「君は普通だ」なんて言われるのは、ちょっと癪です。正直、何を言いたいんだこいつはと思うわけです。
でも、まあ感情を抜きにして考えてみると、特別だの、無能だのといった能力へのレッテルを貼ることは、それが良いレッテルでも悪いレッテルでもなーんにもしなくなる原因になるとわかってきました。
なぜなら、普通であるからこそ、そんな自分を変えたい変化と思うからです。だから、どうにかしようと行動を起こそうと思う訳です。
実際、世の中にはもっとすごい奴がゴロゴロいるわけですよね。
ドラゴンボールなんて強いやつが永遠に出てくる。
そう考えると普通だと考えておくことはまんざらでもなくとても必要なことだと考えるようになってきました。
・・とはいっても巷でよく普通だと比喩されるクリリンこそ理想だと思うかというとそうではないと思うんです。
悟空だってベジータだって普通だから成長した。そして今なお普通、だから成長し続けることができる。最強の敵にも最終的には勝つことができる。そう思ってます。
普通ってやつはまんざら悪いやつではない。
そう考えると、自分ってやつはとことん普通なんだと考えてみる。肩の力を抜いて自分に目を向けてありのままに自分を成長させるってのが大事だと思う。いや、本当にそう思う。
自分は普通だ、だから成長できる。こんな感じで自分を見つめてみる。そうすると、また違った見え方ができるとそう実感する。
それこそが自分を変える、自分を成長させる最強で普通な戦略なのではとそう考えています。
めちゃめちゃ思いつきの雑記。