プロフィール

いずれ娘に伝える父の死について。死の意味、生きる意味。

つい先日の父の葬式・・

先日、父の葬式に行ってきました。一生に一度きり、自分は父の死にどんな感情が湧くのだろう。どうにも客観的だなと感じる自分に「いまのこの感情正解なのかな?」と思いつつ母からの訃報を受けました。

今回は、父の死に関して、生きる意味とは?死ぬとは?と明確に感じたことをまとめ娘や息子にいずれ伝えようと考えまとめることにいたします。

さて、父の訃報を受けた私の感情は努めて冷静だったと思います。そっか、ついにこの日がきたかと。というのも3年前の交通事故から寝たきりだったわけで、そういう意味では突然の訃報とは程遠い状況だったわけです。

なんだかおかしい話ですが、恵まれていたのかもしれませんね。涙一滴出ていません。そういう意味ではセルフコンパッションを活用する必要はなくマインドフルネスな受け止めができていたのかな、と思います。

告別式は翌々日。その日のうちにパパがいいというパパっ子の5歳の娘だけを連れて実家に移動し父に会うことに。7人も兄弟がいると当然ですが物理的に来れない人もいるわけで。コロナ禍の状況ではお見舞いも満足にできなかったわけですが、葬式にも亡骸にも会えないというのはやはり気の毒でした。ビデオ通話で繋がった亡き父に対面、入院当時のままのパパ(子供の頃からパパと読んでいたんですが)でした。

遺体の引き取りまで二日あったので、日本酒好きな父のために久保田の万寿(なんか高いやつ)で父のそばでみんなで昔の動画をみてお別れをいいました。

遺体には娘と一緒に折った折鶴を棺桶に入れました。私は折り紙の裏側に自分の今後の生き方、感謝を簡単に書き添えて鶴を折り入れました。

告別式は家族のみとし火葬を済ませ、目の前で生前の姿から遺骨と遺灰のみとなった父を目前にしました。亡骸でもまるで生きてるようだと思った昨日とはうってかわり自然に帰ったのだと感じました。火葬の後の対面は余程の心の準備を必要だろうと心していましたが人としての形がない位燃やされた父であった為か、心は落ち着いたものでした。無心に近い感じでしょうか。しかし死んでもなお死んだ感じはしませんでした。何かしらの思いを引き継いだ感覚があったからです。

父の死が与えたもの・・

葬式が終わって、あらためて父の死が自分に何を与えたのかを考えました。私が率直に感じたこと、それは、死とは残された人へ人生の在り方を再確認させるということ。死を目前にした時、自分は父に対して孝行ができたのか、今の自分の生き方に後ろめたいことはないか、これからの自分の人生の選択に後悔はないか、そういったことを考えさせられました。

折鶴の裏に書いたメッセージがまさにこれからどう生きていく、という誓いだったのですが父の死を受けてなお、生き方のベクトルに変化はなく、自分は今のところ間違っていないのかなと再確認することができました。

誠実に生きる人を手助けをするとか、娘や息子の生きる指針になるとか、自分のしたいを大切にするとか、そんなことを書きました。

そのように自分にとって大切な人の死とは、普段何気なく過ぎ去り意識を向けることがなかなかない日常を振りかえることができる、自分の生き方の再確認と軌道修正ができるとても貴重な機会だと認識できました。そう考えることで、父の死に私はとても感謝しています。

あるべき他者との関わり方・・

同時に自分の死にもきっと他者に影響を与える力があるんだろうなということがわかりました。娘や息子の指針になりたいと思う自分の生き方には、自分の命の使い方、自分と関係する大切な人との接し方がとても大切であることが理解できました。

ダニエル・カーネマンの著書ファスト&スローには、経験する自己と記憶する自己という概念があります。人が過去を振り返る時、経験の総量ではなくピークとエンドの過去の記憶にすがって判断するということですが、父の死を悼み自分の生き方を振り返る際も、私の記憶の中の父を思い返しています。

誠実で行動力があり、7人子供を産むバイタリティがありお人好し。怒られた記憶がほとんどない。まあ怒ってないわけないのですけどね、それだけ記憶の中の父はいい人でした。また、家族親族知人含め全員が父の死を強く悲しみました。こんなに思われて父は本当に良い生き方をしたのだろうなと。きっと幸せな人生だったんだと意味づけをすると同時にこうありたいとも思いました。これが私の記憶の中のピークとエンドのようです。

なんだかこう考えると、自分自身の人生で他者に影響を及ぼそうと思う、例えば娘や息子の人生の指針になりたいと思うのであれば、二人の記憶する自己に訴えかけるような関わり方が必要なのではと感じます。そう考えるほど娘の人生の岐路やピークに自分が良い形で関わっていたいものだと思います。

ギバーである意義・・

また、他者との関わり方も変わってきますね。自分が愛する家族や友人との関わりはうっすらとしたものではなく、記憶する自己に訴えかけるような存在、そうギバーでありたいと思ってきました。それは他者に影響を与え得るという点はもちろんのこと、他者から影響を与えられる生き方でもあると思うからです。

・・周りが先に死ぬとは考えたくはありませんが、生き方の再確認や軌道修正の機会がたくさんあればそれは自分の人生が最良のものに近づくでしょう。その点でテイカーは幸せを得にくいだろうなと。きちんと自分を振り返らせてくれる大切な人達をたくさん周りに持ちたいものだと思いました。

そして、ギバーとはいっても自分が不幸であれば周りを幸せにすることは叶わないでしょうから自己犠牲的ではないギバーになりたいものです。この辺はアダム・スミス著ギブアンドテイクの学びに感謝ですね。父の死は著書の内容の理解を深めてくれるものでもありました。

葬式とはかくあるべき。

ここまで書いていると、葬式の在り方にも疑問を呈したいところです。妹の義父母がこんなことを言っていました。

「このような簡素で質素な葬式も良いものだ。葬式というものを改めて考えさせられた。」

と。故人を悼み関わる人達が各々の人生を振り返る。それが死が与えるひとつの意味なのだとしたら、関わりの薄い親族や知人、マナーと称して参加する会社の関係者。これらは死を受け止めるにはあまりにも希薄な関係で、本当に故人を悼む人達の今この瞬間を薄めているのだろうな、と感じ、またそのような実感がこのような言葉になったのではないかと推察しました。

その点で、葬式は残って生きていく人達の人生のためにも、本当に故人を大切に思っている人たちだけですべきなのではないかと思います。とはいっても実際には、悲しんでないよ、と言える訳もなく会社の通例でという場合もあるでしょうから家族・親族で行うと意思表示すべきなんでしょうね。

併せて、今回お祖父ちゃんの死に何か感じ取るものがあるのであればということで5歳の娘を連れて行きましたが、まだ早かったのかなあと思う次第です。もう少し大きくなってから伝えようかな。

生きる意味とは・・ひとまずの結論。

父の死は私にいろんなことを考えるきっかけを与えてくれました。死が持つ意味、他者との関わり方、自分の在り方、命の使い方など。その中で自然に帰った父を見て死の意味の反対、生きる意味についても考えました。

私にとって父の死には意味がありました。私の解釈で意味が施されたというべきでしょうか。いずれにしても自分にとっての意味がありました。しかし生きる意味とは。自分が自分に見出す意味、しばらく考えましたがそもそもそんなもん考える必要はないのでは、と結論づけました。そもそも意味とは相対的な解釈であり相手の数だけ意味が生まれるものかなと。相対する父の死には意味を見出した。

しかし父の死に全く無関係な人には意味を見出すことはない。そう考えると自分に対する意味づけ自体が無意味なことでそんなもんは周りが勝手に決めれば良いという訳です。そういえば誰かが言ってたな。人の数だけ真実があると、コナンくんの言ってることとは違うけど私は理解できるかな。

よしんば神様がいたとして、君の生きる意味はこれだと言われたとして、これが神様であったとしても相手に合わせる生き方はしんどい。どこかで自分に無理がかかるのでごめん被りたい。そう考えると生きる意味なんて考えず、今この瞬間に集中して、自分らしく、自分のしたいこと、自分の幸せを考えて生きることが大切なのではと思う。

アドラーっぽい着地であるが、これが自分の哲学なのだからしゃあない。父の死にいろんなことを考えさせられた。少なくとも自分が自然に帰るときには、今回の教えを踏まえた生き方ができていたらと切に思う。そうすればきっと後悔はないかなと。